jpg NEO Sense of Horse Life My Memorial Horses

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ライスシャワー

    scr92kiku2.jpg
                           1992 菊花賞 

        牡 黒鹿毛 1989年 3月5日生 北海道登別産
 父 リアルシャダイ 母 ライラックポイント 父の父 ロベルト  母の父 マルゼンスキー



2017年4月30日の日曜日、第155回天皇賞(春)のレースが行われ、
キタサンブラックが2連覇を果たした。
そのレースの勝ちタイムは3分12秒5(良、日本レコード)。

1995年の同じ天皇賞(春)のレースで優勝したのが
ライスシャワーだった。

あの年の第111回天皇賞(春)の優勝レイを付けた
ライスシャワーのぬいぐるみが
毎年、このレースを走る馬たちの無事を見守っている。

今年もこのレースを観終わって、次のメモリアルホースとして紹介するは、
このライスシャワー・・・・・

tatazumu1.gif




-疾走の馬 青嶺の魂となり- 

1995年宝塚記念で落馬、予後不良という悲惨すぎる競走馬生涯を終えた
ライスシャワーの もっとも得意とする、「淀の坂」のある京都競馬場の一角にある

記念碑に刻まれた言葉です。


馬体重430Kg、どちらかというと小柄な馬。

その生い立ちから運命の宝塚記念までを辿る彼の競走馬人生を思うたび、
私は胸がつまる思いでいっぱいになるのです。

厩務員の川島さんや飯塚調教師、
そして鞍上をつとめた的場均騎手のあふれるばかりの愛情。

「ライスシャワー その栄光の奇跡 」というビデオを観るたび、
無念さで涙が出てきます。


過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、
騎手と一体となって戦う従順さと、
その内に秘めた闘志。

そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。

4歳クラシック菊花賞、秋の前哨戦 「京都新聞杯」で、
ミホノブルボンの2着に入線したライスシャワー。

マルゼンスキーの肌にリアルシャダイがかかった長距離の血。

頭が低い姿勢とテンポのいいピッチ走法が物語る、
彼自身の明らかなステイヤー資質。

そして、夏を越して、ダービー2着の時には4馬身あった差を、
一気に1馬身半まで詰めてきた成長力。

血統的にも長距離向きの晩成型ステイヤーでした。

2冠馬ミホノブルボンの三冠目の菊花賞を阻止した、
京都競馬場での彼の末脚。

ライスシャワーはミホノブルボンに1馬身1/4差をつけて、
ついに先頭でゴール。

勝ちタイムは3分5秒0、菊花賞レコードでした。

しかし、その時の私にとって、むしろライスシャワーは
「 ブルボンを倒した憎きヤツ 」
でした。

そして、そのままミホノブルボンのほうは、
引退を余儀なくされてしまい、
その後のライスシャワーは、
ブルボンのいなくなった4歳世代の大将格として、
古馬戦線を戦うことになりました。

1993年、(旧)5歳になった「 刺客 」ライスシャワーは、
天皇賞(春)で、
またしても春の盾3連覇を狙ったメジロマックイーンを、
2馬身半の差をつけて先頭でゴールしたのです。

京都芝3200mを駆け抜けた3分17秒1の勝ちタイムは、
天皇賞(春)のレコードだったのです。

しかし、天皇賞のレース後のライスは、
それまでの闘志をむき出しにするような、
あの凄みがなくなってしまったのです。

激走の疲れだったのでしょうか。

(旧)6歳春、天皇賞(春)を直前にして右前脚を骨折し、  
長い不振のトンネルに陥ってしまいました。


そして、ついに7歳(現6歳)の春、
2度目の天皇賞の盾を僅差で奪還したのです。

それまでの優勝は、勝ってもいつも
地元関西のスターホースを無残にも倒した仇役という憎まれ役だったのが、
この鼻差で勝ち取った執念の勝利に対して、
「刺客」ライスシャワーという脇役としてではなく、
初めて観衆からの彼に対する歓声と祝福を受けたのです。

天皇賞・春(Gl)2勝目という偉業、そして2年ぶりの復活勝利という、
まぎれもないライスシャワー自身の奇跡でした。

菊花賞優勝から、いつしか「淀の坂」の京都競馬場は、
ライスシャワーの走りを待っていたかのようでした。

7歳という年齢の衰えをもってして、
なおもステイヤーとしての彼の意地、勝負にかけた凄みが、

2着のステージチャンプをたった鼻差という僅差での首位奪還をもたらしたのでしょう。

この日のライスは、TVの前で観ていた私をはらはらさせました。

淀の3200m の 第3コーナーにかかる長い上り坂から
早くも先頭に踊りだしたのですから。

淀のコースは、上ってからまた下るという心臓破りの坂が待っているのです。

だから、

「 あっ! ライス、仕掛けるのが早いのでは・・・ 最後の直線まで持つのか・・・」

しかし、

その日のライスシャワーは、それまでの長い低迷を払拭するように、自らの意志で
同期のミホノブルボンを倒し、
最強のステイヤーの名を欲しいままにしていた
武豊騎乗のメジロマックイーンを直線で沈めた
思い出の京都競馬場で、2年ぶりに再び勝利を勝ち取ったのです。

最後の本物のステイヤーとしての誇りを、京都競馬場の観衆の前に示したのでした。

「 やった・・・ 」

ほっと、安堵しました。「 ライスシャワー、お前は本当にすごいヤツ・・・ 」


しかし、ライスシャワーにとってこの日が、
生涯最後の栄光のゴールとなってしまったのです。



そして、迎えた6月4日、宝塚記念。 

舞台はやはり京都競馬場。

その年、1995年の宝塚記念レースは、阪神大震災の影響で、
いつもなら阪神競馬場での開催が、
舞台は京都競馬場に振り替えられていたのです。

そのことも、ライスシャワーの悲劇的な運命への旅立ちへと導いたのでしょうか。
ファン投票第一位という、堂々とした主役としての参戦でした。


3コーナーの坂を駆け上がるライスを襲ったもの、
それがなんだったのかは判りません。

突然、前のめりになったライスシャワーの体が崩れ落ちていきました。

TVの画面を見つめていた私の口から 

「 ああ。。。 」という悲鳴とも絶叫ともいえない声がもれました。


左前脚第1指関節開放脱臼。

しかも、脱臼した箇所より下の部分の骨は、粉々に砕け散っていました。

予後不良により、その場で安楽死処置。

その日のレースをいつものように録画していた私は、
最近になって偶然にも消してしまいました。

それは、もしかしたら、その彼の最期のレースを心に残すのではなく、
黒く輝いて、先頭でゴール板を駆け抜けていったライスシャワーの姿を
胸に刻んでおいて欲しいという
天国のライスからのメッセージかもしれません。


淀を愛し、淀で輝いた最後のステイヤー、ライスシャワー。

その最期は、あまりにも悲しすぎました。


「 天皇賞からあと、ライスシャワーはいい顔してたよ。
  目が澄んでね。  
今でもそれははっきり覚えている。」  

ライスシャワーの主戦ジョッキーだった的場均騎手の、彼を振り返る言葉が、
そんな私の心を優しくします。


ホクトベガやマイシンザンが出走するという1995年の毎日王冠を観にいった
東京競馬場の ターフィーショップで購入したライスシャワーのぬいぐるみ。

トレードマークの黒いメンコをつけて、111回天皇賞(春)の優勝レイをつけています。

愛車の後ろにビワハヤヒデと一緒に飾ってあって、
なんだか日に焼けて、色あせてきました。。。
( ライスゴメンね。。。)

今、ライスシャワーは、生まれ故郷の北海道登別にある、
ユートピア牧場で眠っています。


             さあ、完全にライスシャワー先頭だ!

             ステージチャンプ!ステージチャンプが2番手に上がった!

             ライスシャワー! ライスシャワーとステージチャンプ!


             いや~、やったやった~!

             ライスシャワーです!!

             おそらく、おそらく、
       
             メジロマックイーンもミホノブルボンも 喜んでいる事でしょう!

             ライスシャワー!

             今日はやった~!

             勝ち時計3分19秒9!

             ライスシャワーです!

  ----- 杉本アナの実況 ( 1995年天皇賞・春 ) -----


私は、小柄でしなやかな黒鹿毛の馬の、

その首を低く下げて走る姿をいつまでもいつまでも追い続けています。




sougen.gif


生産者 ユートピア牧場
調教師 飯塚好次(美浦)
主戦騎手 的場 均
競走成績 25戦6勝
総獲得賞金 7億2949万7,200円
表彰項目 1995年 JRA賞特別賞
主なレース成績
1992年 東京優駿[日本ダービー] (GI) 2着
1992年 セントライト記念(GII) 2着
1992年 京都新聞杯 (GII) 2着
1992年 菊花賞 (GI) 1着
1993年 日経賞 (GII ) 1着
1993年 天皇賞[春](GI) 1着
1995年 天皇賞[春](GI) 1着
1995年 宝塚記念 (GI ) 中止

1995年6月4日没


s93nikkei-1.jpg
+ 1993日経賞 +
的場騎手とライスシャワーの雄姿

黒鹿毛が青い手綱に映えて美しい

写真提供:「RACINGFIELDS.com」



( 2004年9月3日記 )


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ホクトベガ

hokutovega01.jpg
1993エリザベス女王杯

                牝 鹿毛 1990年03月26日生 北海道浦河産
                 父 ナグルスキー 母 タケノフアルコン
             父の父  ニジンスキー  母の父 フイリツプオブスペイン


ホクトベガは、私が 「Profile」 のなかで、好きな「 競技者 」として掲載している
今は亡き牝馬です。

私が、彼女に魅かれたのは、(旧)4歳牝馬クラッシックのうち、
秋の「エリザベス女王杯」を制した1993年の秋からです。

その時、私は南米パラグアイに赴任したばかりでした。  
滞在先の日系人経営のホテルロビーに置かれている、
日本のスポーツ新聞でレースの結果を知りました。

このレースを制したホクトベガは、
「 ベガはベガでもホクトベガ 」という、
今でも語り草になっているアナウンサーの実況で有名な
彼女の同期の「 ベガ 」の3冠を阻止したことで、一気に注目されたのです。

日本から定期購読していた 「 優駿 」という月刊誌を食い入るように読みました。
彼女の競走馬としての血統や生産牧場など、とても地味な印象の馬が、
こんなふうに活躍してくれたことで、
遠く日本を離れていた私に元気をくれたことを思い出します。

( 旧 )4歳牝馬の頂点の座まで登り詰めたホクトベガ。
でも、その後、なかなか勝てず、やっと(旧)5歳夏、二つのレースを勝利したのですが、
このうちの札幌記念の勝ち鞍が、その後、ダートで活躍していく彼女の、
芝での優勝の最後になりました。

その後の不振により、一度はなんと障害競走にも出場させられそうになったんですが、
(旧)6歳最初のレースとなるAJCCの2着という結果をもたらし、
平地での現役続行となりました。

パラグアイから帰国後の秋、1995年10月8日の「 毎日王冠 (GII)」のレースで、
最初で最後の彼女の実際の走る姿を観ました。

雨の中のレース。 

それからの彼女ですが、芝のレースより、
地方競馬交流試合を含め、ダートでの圧倒的な強さで快進撃を続けました。

特に、1996年2月17日 フェブラリーステークスのレース。
雪の降る寒い東京競馬場のダートコースを、先頭で駆け抜けた彼女の貫禄の走り。
牡馬を尻目に、白い息を吐きながら、猛然とゴールする姿は、
ものすごくかっこよかったのです。

ダートでは、本当に負け知らず。

「 砂の女王 」と呼ばれた彼女は、
有終の美を飾るべく引退レースとして、海外遠征を選びました。
無事に遠征が終了すれば、引退して繁殖牝馬への道が保障されていたのです。

アラブ首長国連邦 ドバイで開催されたダートの世界一の舞台、
「ドバイワールドカップ」。

しかし、彼女は二度と日本の土を踏むことなく、
レース中の事故で安楽死の運命に泣きました。

1997年4月3日 (満)7歳の春でした。

我が家の仏壇に、両親の写真と一緒に、彼女のテレホンカードを飾っています。
牡馬に混じって走り続けた彼女の「 強い走り 」のその生涯を
私は、ずっと忘れないでおこうと思うのです。

( ホクトベガの墓は、生まれ故郷の酒井牧場にあります。
  検疫の関係で、骨は持ち帰れず、たてがみの一部を日本に持って帰ったそうです。)

( 2004年8月13日記 )

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生産者 酒井牧場
調教師 中野隆良(美浦)
主戦騎手 加藤和宏
横山典弘
競走成績 中央32戦7勝 地方9戦9勝 海外1戦0勝
総獲得賞金 9億2812万6,000円
表彰項目 1996年 JRA賞最優秀ダートホース
NARグランプリ特別表彰馬

主なレース成績
1993年 エリザベス女王杯 (GI) 1着
1993年 フラワーカップ (GIII) 1着
1994年 札幌記念 (GIII) 1着
1996年 フェブラリーステークス (GI) 1着
1997年 ドバイワールドカップ 中止

1997年4月3日没

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ミホノブルボン

s92satsuki1.jpg
1992皐月賞

               牡 栗毛 1989年04月25日生 北海道門別産
          父 マグニチュード 母 カツミエコー 父の父  ミルリーフ  母の父 シャレー



故戸山為夫調教師が創り上げた「 坂路の申し子 」ミホノブルボン。
「 栗毛の超特急 」 ミホノブルボン。

ブルボンの父は マグニチュード 、 母は カツミエコー、そして 母の父 シャレー。
母系を見ると、特筆すべき血統ではありませんでした。

どちらかといえば地味。

そんな二流の血を跳ねのけるべく、ものすごいハードトレーニングを課せられ、
心肺機能と四肢の筋力を極限まで鍛え上げられた馬。

それが、ミホノブルボンでした。

私が彼を初めて観たのは、皐月賞のレース。

テレビの画面に映し出される鍛え上げられたミホノブルボンの、
繰り出す前肢の筋肉のその躍動美。

私は、彼の走る姿を観てから、競走馬の美しさに魅了されたのです。
私が競走馬、競馬に傾倒するきっかけになった馬です。

北海道の家族が細々と経営する、零細牧場から生まれた奇跡の馬。

既に癌に侵されていた戸山調教師の信念 「 鍛えて最強馬を創る 」、
そして、鞍上の小島貞博騎手の40歳にして悲願のクラシック制覇を現実のものとした
ブルボンの走る姿は、
その後の私の人生に、大きな影響を与えてくれました。

競馬という世界に、馬を取り巻く様々な感動的なドラマがあることを知りました。
走る馬の姿を見ていると、自然に前向きになれ、
自分の人生の挫折を吹き飛ばしてくれました。

明日の希望さえ失い、パラグアイに赴任することになった、
大失恋の傷心の私を救ったのも、
この競走馬たちでした。

そのきっかけを作ってくれたミホノブルボンの存在。

それから、私の日曜日は、午後3時と深夜、テレビの競馬中継のある時間は、
必ずTVの前に座ることになるのです。

スプリンターの血のブルボンは、
世間の「距離の不安」説を吹き飛ばし、皐月賞、ダービーを見事に逃げ切って、
圧倒的な勝ちっぷりで、 (旧)4歳クラシック二冠を手中にしました。

そして、迎えた秋のクラシック。
ミホノブルボンは、シンボリルドルフ以来の無敗三冠馬誕生の期待を一身に受けて
菊花賞に臨みました。

菊花賞のレースは、3000m、ブルボンの未踏の距離です。
しかし、
「関東の黒い刺客」ライスシャワーのステイヤーの血の前に、
ゴールまであと残り100mというところで、
その夢を断たれてしまいました。

1馬身3/4差、ライスシャワーのレコード勝ちの2着でした。
京都競馬場を埋め尽くしていた観客から、悲鳴があがりました。

この時の私にとっては、ライスシャワーの存在が、ただただ憎らしいだけでした。
クビを低く下げ、風のようにブルボンの後方から不気味に詰め寄る黒い小柄な彼の姿。
それと対照的に、首を高く上げたまま走るブルボンは、
道中、舌を出して、ちょっと苦しそうに見えたのです。

やはり、3000mという距離の壁か。。。

故・戸山調教師は、

「 いくら鍛えても、この馬の本質を変えることはできなかった。 」と、

血統からくる距離の壁という敗戦の弁を語っていたそうです。

菊花賞のレース後、故障が続き、ブルボンは古馬となって活躍することなく
ターフを去っていきました。

種牡馬になってから、なかなか活躍馬が排出されないブルボン。。。
やっぱり、あなたは、信念の人、戸山調教師がつくった 
最初で最後のサイボークだったのかなぁ 。。。

( 2004年8月8日記 )

  

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生産者 原口牧場
調教師 戸山為夫(栗東)
松元茂樹(栗東)
主戦騎手 小島貞博
競走成績 8戦7勝
総獲得賞金 5億2596万9,800円
表彰項目 1991年 JRA賞最優秀3歳牡馬
1992年 JRA賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬

主なレース成績
1991年 朝日杯3歳S(GⅠ) 1着
1992年 スプリングS(GⅡ) 1着
1992年 皐月賞(GⅠ) 1着
1992年 東京優駿[日本ダービー](GⅠ) 1着
1992年 京都新聞杯(GⅡ) 1着
1992年 菊花賞(GI ) 2着


1994年引退 種牡馬として繋用。
         ◎繁用先 :
           日高軽種馬農業協同組合 門別種馬場
         その後、生まれ故郷である日高町のファニーフレンズファーム(旧:原口圭二牧場)
         で繋養。
2012年11月1日  種牡馬生活も引退。      余生を送っていた。。。
2017年2月22日  午後6時 老衰のため死亡。
     

08:00 | My Memorial Horses | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

「 My Memorial Horses 」 Prologue

pony_20170401143459fee.jpg

馬、特に競走馬の魅力に取りつかれたのは、
もちろん獣医師という仕事の専門の影響もありますが、
急速に、私が傾倒し始めたのは、1992年(H4)春の、「皐月賞」からです

そのレースの覇者「 ミホノブルボン 」
彼の繰り出す前脚の筋肉の流動美に、
何気なくTVを観ていた私の眼は釘付けになったのです

その頃の私は、ずっと付き合っていた人との進展の見えない将来に、
なにかその人以外に夢中になれるものを求めていたのかもしれません

それから、ずっと追いかけている競走馬たち

私が、愛したその競走馬たちの中で、特に思い入れがあり、
忘れられない名馬たちを
少しずつ、紹介していこうと思います

これは
これらの馬達を通して
私自身がおかれていた人生を映し出す
思い出の記録でもあります

                       JRA 50周年を記念して  
                              December,  2004  Jacaranda



*注:  2001年より競走馬の馬齢表記方法が変更になりました。
      2000年まで3歳で 新馬だったものが、2001年以降は生まれた年が0歳となり、
      2歳で新馬 デビューとなります。
      つまり、2000年以前の馬齢から1歳引いたものが現在の馬齢の数え方になっています。
      したがって、2000年以前の活躍馬の記事に関しては、旧馬齢表記になっています。
15:26 | My Memorial Horses | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
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